2009/11

ゴミ屋敷の住人

レヴィ=ストロースが亡くなってからまだ数週間、いつも立寄る本屋で主にブラジルへ赴くまでを解説した文庫、入荷に気付いて購入に至りました。私は高校生の頃に「悲しき熱帯」に遭遇、その時期の屈折した感情を癒された記憶があります。つまり当時流行ったゲバ棒に想い至らず、偶然に人類学を発見して未開社会と今を比較、眼前の現象に拒絶する余地を見出したのです。青春の息苦しさや高校生活にやるせなさを感じて、ひどく落ち込んでいましたから、真新しい「野生」のキーワードは効いて、フランス式?呪文にすこし酔って仕舞った訳です。真っ暗で絶望の縁を一人で歩いている感じの思春期の思い出は、すこし大げさな言い方こそが相応しい気がします。ところで先日、TVでは整理できない都会人が増えている、ちょっと興味深いレポートが放映されていました。様々な職業や年齢の方、多数の男女がそうした状況に陥っていて、最近は整理専門のボランティアグループまでも活動しているのです。以前に報じられたごみ屋敷の住人は、余程偏屈な親父との受け止め方でしたので、現実はそこまで酷いのかと驚いた次第です。でも冷静になって自身について考えますと、結構物を捨てられないで、無用の空き箱が部屋の中に散乱していたりします。一歩間違えば、TVで報じられた人々と同じ立場になるのかなと、そんな気持ちもしない訳ではないのです。そこにふと先日亡くなった哲学者のことが・・・、つまりこの現象は「プリコラージュ」未開人特有の生活手段、私はそう理解しましたがその面影ではないかと。ごみ屋敷の人々にストロースが指摘した、あの「野生」が復活していて、現代人には一見歪んだ行動に思えるのです。いずれにしても都市に暮す私たち、逆説的な言い方になりますが、身の回りに物があふれる不自由さに、身体が無意識の悲鳴をあげているのです。家畜化された都市人、肉体の何処かに野生が潜んでいて、脳味噌に反旗を翻している結果なのだと。

写真解説

当時は世界の哲学や文学、シリーズ物が流行、それでストロースを識りました。文学では理解不能であった「世の果ての旅」、仏版ゴミ屋敷の住人?セリーヌを高校の友達は面白いと発言、取り残された気分を味わいました。