2009/07

建築という話芸

最近出版された堀井憲一郎「落語論」を読んで気付いたことがあります。落語を寄席で聴いたことの無い人間ですが、堀井氏が語る落語論は大変興味深く、考えさせられる指摘が多々あって、感心して仕舞いました。週刊誌連載のコラムを時々読む一読者に過ぎない私でしたが、数年前に偶然本屋で「若者殺しの時代」そのタイトルに引かれて購入した文庫、そこで論じられた視点が秀逸で、大変共感できる内容に仕上がっていて、彼のファン?になった訳です。担当されているコラムはある種の社会分析ですが、長期間継続させている独特の市場調査、そのノウハウが彼の文章には色濃く反映されて、所謂学者が書いた論文を読むよりも頷いて仕舞うことが多いのです。今回読んだ落語論においてもそれは同じで、落語を知らない人間に落語本来の奥深さ、話芸を論じて余り有ります。彼が一貫して主張している点は、寄席に出掛けて実際に「はなし」を聴かなければ、本当に落語を理解したことに成らない。この指摘は話家と聴手の相克を的確に捉えて、成るほどと思いました。つまり彼の論旨を私なりに解釈すれば、建築家と建物に対しても同じことが言えます。マスコミが流す建築家像やその作品は、一昔前よりも大量に個人に届いていますが、実は建築家が設計した建物を実際に本人が体感せぬ限り、単なる情報を受け取っただけでは本当の意味で建築家を理解、建物を享受したとは言えないからです。昔から小説などに登場する建築家像は、ひどく格好の良いヒロータイプが目立ちます。本来建築家とは、実は落語つまり話芸者に近いマイナーな職人的な狭い世界での生き物であり、彼らがマスコミに登場して話題を振りまく虚像よりも、日々地道に依頼者と建物を拵える為に戦わせる作業にこそ、真骨頂があると思うのです。結果として建築家の作品は世に残されます。そこが一番落語家と異なる点で、堀井氏も述べていますが録画された落語に真実はないと、しかし建築作品が残されて居れば人はそこに赴いて、建築家の肉声を体感できるのです。それは落語家の刹那に対して、後世においても真の理解者を得ることが可能な故に、責任は重いと考えるべきなのでしょうか。

写真解説

話芸として捉える建築とは別に、では大量生産された建築を我々は如何に理解すべきなのでしょうか?それが弊社、私自身のテーマでもあります。写真は漫画に描かれた公団的住居立面。